「人に正論を振りかざす時は気をつけた方が良い。正論は人を傷つけるから。」
小学校の先生である妻がそう言ったのを聞いて、私はなるほど、と膝を打ちました。
もう何年も前の話でした。
職場の後輩から頼まれごとをした際に、正論を言って断ったことがあります。
すぐに私を頼るくせを直そうと思ってのことです。
「自分の面倒を、他人に押し付ける癖、やめた方が良いと思うよ。」
今でも自分が言ったことが「間違っている」とは思っていません。
でも、その指摘で後輩がひどく落ち込んでしまった様子を見て、別の言い方をすればよかったかとも思ったのです。
正論とは、正義の剣です。
過ちを犯した人を裁くこともできるが、時にそれで人の心をグサりと突き刺してしまうことがあります。使い方を間違えると、人格否定にもなってしまうのです。
あくまでその時、その場の行動をただすことが大事なのだと思いました。
一方、人の過ちを、正義の剣でさばくのでなく、包み込むことが出来るものがあります。
それは「愛」です。
正論を超えた先にある「愛」に気づかせてくれた映画に出会いました。
それが映画「凪待ち」です。
実を言うと、私は映画を観ながら激怒していました。
視聴中、三回は怒りに拳を震わせていたのです。
二度とこんな映画観てやるか、とまで思っていました。
本作品は、香取慎吾と白石和彌監督がタッグを組んだ話題作でした。
何が話題かと言いますと、香取慎吾君が、ギャンブル依存で暴力を振るって、落ちぶれていく役を演じているのです。よく、ジャニーズ事務所がこれをOKしたな、と言う内容です。
もう香取君は、ジャニーズではなかったですが。
とにかく、ジャニーズを退所した香取慎吾が、バイオレンスやハードな現実社会を描くことで有名な白石和彌監督と組むこと。そのこと自体が話題を生んでいたのです。
実際に映画の評価も上々です。
「香取慎吾の役者としての新境地にして最高傑作」
「香取慎吾がクズ役を見事に演じ切った。」
香取慎吾の役者としての演技を称賛する声が上がっています。
それに異論はありません。
でも、少なくとも私自身は、本作を観ている間、香取慎吾の役者論といった客観的な分析をできるほど、冷静ではありませんでした。
怒りに身を震わせていたからです。
我を忘れて映画に対して怒っていたからです。
香取慎吾の演技への怒りではありません。
香取慎吾が演じる主人公に対する怒り、です。
主人公木野町郁男の、数々の裏切り行為に対する怒りでした。
本作は、木野本郁男が、恋人の歩弓と歩弓の娘と一緒に、歩弓の実家である石巻に引っ越すところから始まります。郁男は根っからのギャンブラーで、悪友と競輪三昧でしたが、引越しを機に心気一転を図ったのです。
石巻では、震災で奥さんを亡くした歩弓のお父さん、勝美が一人で住んでいました。
勝美さんの身の回りの世話をしてくれている小野寺さんという御近所さんが居て、小野寺さんが郁男の仕事の面倒も見てくれたのです。
そんな周りの支えもあって、郁男の生活は順風満帆でした。
しかし、事件が起こります。
夜遊びに出て帰ってこなかった娘を探す途中、育児方針を巡って、郁男は歩弓と口論になります。
怒った郁男は、車から歩弓を降ろして、一人にしてしまいます。
その夜、歩弓さんは何者かに殺されてしまうのです。
ここまでのあらすじから、ミステリーにもとれますが、そうではありません。
ここからは郁男の転落人生がメインになります。
郁男のクズっぷりが、これでもか、というほど描かれるのです。
郁男は自暴自棄になって、何度もトラブルを起こします。
トラブルが起こるたびに、周りの人たちが郁男を救います。
職場では、同僚との金銭トラブルで暴動を起こし、器物破損。
御近所さんの小野寺さんが解決に走ります。
郁男は、小野寺さんにお金を返すため、ギャンブルに手を染めます。
石巻市には競輪場はないので、闇競輪のような場所でギャンブルに依存していきます。
そこで借金を重ねる郁男。
歩弓さんの父が救いに手を伸ばします。
借金が膨らみ、自暴自棄になった郁男は、地域のお祭りに繰り出し、酔っぱらった勢いで、通行人に喧嘩を売ります。
その時は、小野寺さんが優しく諭してくれました。
しまいに、やくざ相手に喧嘩を売ります。
歩弓さんの父が助けに出ます。
枚挙にいとまがない、とはこのことだと思いました。
歩弓の父やご近所さんなど、なんの血縁関係もない人が、郁男を助けるのには違和感がありました。
そこに対する怒りもありました。
なんでみんなこんなお人好しなんだ。
ギャンブルや暴力で身を破滅する。
しかも助けてもらったお金をまたもギャンブルにつぎ込む。自業自得ではないのか。
こんなあり得ない筋書きを描く映画自身に対しても怒りが湧いてきました。
しかし、一番許せなかったのは、死んだ恋人・歩弓さんまでも裏切ったことでした。
映画冒頭、石巻に引っ越す前、郁男は歩弓に「(ギャンブル辞めるのを)約束できる?」と問われていました。
郁男は、その約束をやぶります。
歩弓さんが郁男と付き合いたての頃に交わした約束「カリブ海の島に海を見にいく」。
その約束を軽視する郁男のクズな行動もありました。
愛する人との約束を軽視する郁男に同情の余地無し!
それにも関わらず、郁男は、周りの人たちに救われ、許されていきます。
なぜなんでしょうか。
なぜ誰も、郁男に対して、正義の剣を振りかざさないのでしょうか?
ギャンブル依存、暴力は絶対ダメ。
社会では、それが当たり前のルールではなかったのでしょうか?
なぜ、みんなは郁男のことを許したのでしょうか?
その答えはラストシーンにありました。
ある一つの紙切れを海の底に流すシーンでこの映画は幕を閉じます。
このシーンに込められたのは、死んだ歩弓への「愛」の存在でした。
歩弓への愛が、郁男への怒りを包み、許しや救いを生んだと気付かされたのです。
郁男は、歩弓が愛した人物であり、歩弓は父や小野寺さんが愛した人物だったのです。(歩弓さんを愛する気持ちが悪い方向に向くことがあることも、この映画では語られており、それが映画の深みをましています。)
歩弓さんの父は、自分が大切にしている人が愛した人物に、正義の剣を向けることができなかった。むしろ、その人の罪を包み込んだのです。歩弓が愛したのだから。
考えてみれば、私も、妻が過ちを犯したとして、本当の意味で断罪することができるだろうか?
正しさ、だけが、人生のすべてではない、そんなことを思い起こさせてくれたのです。
いつの間にか、映画への怒りは、正論を超えた感動に変わっていました。
そのことを体現した、香取慎吾が、最高の演技と評されるのも納得の出来だと言えます。
この映画は、愛する人を抱える人、その誰もが観るべき傑作となったのです。