新海誠監督の最新作「天気の子」がレンタル開始していましたので、遅ればせながらですが、鑑賞しました。
あのポスターのビジュアルといい、RAD WIMPSが主題歌の音楽を務めているといい、「君の名は。」の続編か? なんて思えるほど、雰囲気が似ていたので、正直ちょっと観るのをためらっていました。
でも、さすがに新海作品は、避けて通れないかな、と思って、レンタルを期に観たのです。
感想としては、なかなか結論を出しづらい映画になっているなぁって。
多分本作は、世の中的には賛否両論分かれていると思います。
実際、自分の頭と心の中でも賛否が分かれています。
心では、あぁこれは面白かったと感じていても、頭では、本当に本作を面白いと言って良いのか? と問いがわきます。
自分の中で結論を一つに絞ることができないのです。
あえて、言えることがあるとしたら、前作「君の名は。」と比べてどうだったか?
「君の名は。」はエンターテイメント作品として高いクオリティとなっていました。
「君の名は。」に比べれば、天気の子は良い点も悪い点も両面ある。
でも、どちらが心に残るかで言えば、私は「天気の子」であったと言いたい。
天気の子は思春期への旅
「天気の子」は、思春期、つまり世界が自分中心にまわっているかのように思えた、あの時代の感覚にタイムトリップさせてもらえる映画でした。
社会の歯車となった大人が、「社会や世界はどうだっていい」という価値観に触れて、現実から逃避する、甘い誘惑に満ちた映画だったのです。
だから本作は、主人公帆高と同年代くらいの方が、共感を得やすい話だと思いました。
逆に、私のような大人からは、痛烈な批判があるのもおかしくない。
映画本編を観ている間は、その思春期のキラキラとした非日常の世界に浸り、
やがて、「自分たちの正解」を通す主人公の勇気や価値観に心を打たれます。
でも、観賞後、しばらく時間がたち、社会の歯車に戻ると、天気の子のあの体験は、甘い現実だった、とリアルな社会の現実に絶望せざるを得なかったのです。そうなると、だんだんと天気の子の、現実に対して向き合っていない姿勢が目につきはじめます。
まさに、思春期への旅で、鑑賞中は自分もかつて心のどこかで感じ取っていた価値観に触れて、心が高ぶる一方で、旅を終えてからは社会に対して甘めな結論に苛立ちすら感じてしまう。
もしかしたら、思春期と決別した大人は映画の間終始イライラしながら、本作を観ていた可能性だってあるのかもしれない、なんて思っていました。
個人的な鑑賞体験で言えば、あの帆高たちの逃避行のシーンは素晴らしかったと思います。
ホテルで、少年たちが身を寄せ合って、カップヌードルをすするシーン。
帆高自身が、何も足さなくていい、何も引かないでください、と神に語ります。
厳しい状況に置かれていても、自分たちだけの小さな幸せ、非日常を楽しむ感覚、今を楽しむ感覚は思春期特有だと思っています。
大人は常に、過去を振り返っては後悔し、未来を想像しては不安に駆られます。
だから現実逃避という甘い誘惑に乗せられます。
大人は、そんな刹那の楽しみが永遠には続かないと分かっています。
何も足さない、何も引かない、そんな望みが届かないことは大人には分かっているのです。
だからこそ、辛いシーンでもあります。
次に、クライマックス近く、陽奈に会うために、警察の手を振り切って、線路を滑走するシーン。
東京の線路沿いを走るそのシーンは、帆高が社会の良識よりも、自分の正解を見つけて、決断し、迷いなく駆ける、とても美しいシーンになっていると感じています。
特別警報が出されるなか、電車が止まっているという設定を活かした名シーンになっていると感じています。
やがて、社会や世界がどうなったっていい、自分たちのセカイを守る決断へと舵を切ります。
そのセカイの選択が、今の自分にはない(出来ない)選択、だからこそ輝いて見えました。
実際の社会や現実を分かっていない。
言うのは簡単です。でも、映画を観ている間くらい、そんな感傷に浸ってもいいじゃないか。
そんなことも思います。
映画は旅だと、常々思います。
現実社会で経験できない体験を疑似体験し、感情移入させてくれるからこそ、尊い体験なのです。
本作は、思春期時代への旅なのです。
でもやっぱり旅から戻れば、批判的な眼も戻ります。
災害の描かれ方や命の重みの向き合い方。
これは結論は出せません。真正面に向き合えば、向き合うほど、主人公の決断に対する批判の声もあがるかもしれません。
でも、批判できるほど、一人の少女に世界の運命を託すのはどうなのか?
だからこそ、帆高は自分と陽奈のセカイを通したのです。
新海誠監督は、そういった批判が起こることを分かっていながら、描き切りました。その点については、バランスよく作られていたと思います。
天気の子とは何者だったのか?
でも、あえて言うなら、天気の子の描かれ方が、もう一つ深堀りして欲しかったと思っています。
監督はおそらく、一人の普通の女の子として見せたかったのでしょう。
物語上、世界の運命を背負う天気の巫女としても描かれなければなりません。
運命を背負う巫女は、帆高と陽奈の間だけの秘め事のような設定になっており、周りの大人からの理解があるのか、ないのか、今一つわかりません。
お天気届けます、のサービスで実際に晴れにしたり、
テレビで晴れ女の能力を写されたり、その割には、肝心の災害の際には、特にヒナの能力を社会から求められる描写がないのも違和感がありました。
天気の子も、弟がいて、社会に隠れてひっそりと二人で暮らしています。
天気の子を人間として見せたいのか、御子として見せたいのか、今いち焦点が定まっていないように見えました。
警察じゃないけど、あの小さな子供二人が、二人だけで暮らしているのはおかしいし、警察から逃げる理由も正直あまりよく分からない話。
帆高も、警察から追われる理由が、人生棒にふってまで、ってどうしても大人目線では思ってしまいます。
こうしたアラのような部分は、鑑賞中はトリップしているから見逃してやりたい、と思えても、冷静に考えるとどうしても弱点として気になってしまうところです。
凸凹だけど気になる作品
そういう疑念の余地が残るという点でも、完璧に作り挙げられたというより、少しいびつでデコボコとした鑑賞体験になっています。
でも今となっては、そこも良いところだと思っていて、新海誠監督は、帆高がした選択と同様に、社会や物語、脚本上の正しさよりも、思春期を生きる若者のセカイの価値観の提示こそに力を入れたかったのではないかと考えています。
やっぱり良い悪いは別にして、好きか嫌いかで聞かれたら、好きと答えてしまう作品だと思っていました。